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高校の<授業>v.s.大学の<講義> 種々の情報と議論の叩き台

 『高校数学+α :基礎と論理の物語』を開設してから5ヵ月が経った(2004.02.08現在).私は,高校数学について,その基礎部分を補い,単なる受験数学としてだけでなく,アカデミックな大学数学への準備と捉える見方で書いたつもりであった.したがって,読者層としては高校生・高校の先生方が大半であると考えていた.しかしながら,開設の早い段階で「広島大学1年生の pdf ファイルを印刷して読みたい」とのメール(2003.10.30)に象徴されるように,大学生からのアクセスもかなりの数に上るようである.そして大学の先生の日誌 「あらきけいすけの研究日誌」 で取り上げられるにいたって,現在の大学の実情((愚痴と怒りと1)以下) を知らしめられた.大学の教育はうまく行っていない?との疑問が生じて,ショックだったが,高校から大学に至る教育の実態を調べる強い動機になった.私は,20年以上も前の大学院生・研究生の時代に,大学の非常勤講師を長らくやっていた.しかし,20年前の知識が全く役に立たないことは 大学での数学基礎教育の改革を目指して(北大・高等教育機能開発総合センター教授 西森 敏之) を読めば一目瞭然であった.

 高校生の学力低下は baccy 先生 とその同盟サイトの先生方との 新春ビッグ対談 に詳しい現状が書かれている.そこには 大学に受かることだけが目的となった高校生の姿 がある.それに伴う大学生の学力低下は 教育フォーラム(西村和雄 京大教授 主宰) を見ると暗澹(あんたん)たるものがある.何しろ,「分数ができない大学生」という表題の本が評判になるのだから.さらなる情報は 北海道大学高等教育機能開発総合センター 高等教育開発研究部 (特に,日本数学会のアンケート調査(1997)大学生の数学の学力は低下しているか?) および 21世紀の大学を考えるために..リンク集 等から得られる.危機感を抱いた大学は「大学1年生は高校4年生?高校教育と大学教育の連携を考える」に見られるように高校との連携を模索している.そこでなされた 札幌東高等学校の湯田 恭丈 先生による分析「各教科の学習内容や学習指導上の問題点─具体的な実践例から」は実に当を得ている:特に注目すべき点は
・大学受験が高校生の知識の質を変質させている
→受験に重要な知識(教科)とそうでない知識(教科)
→知識は本来の意味から切り放され大学受験から数カ月たった段階で失われていく
→また,知識の質も相互に関連のない断片的・画一的なものに変質していく。

・学力低下の複数の要因→母子密着,塾や習い事,偏差値,努力の過程より結果が求められる社会
・知識量や解答のスピードはある→自分で工夫して学習したことがない
 また,名古屋大学では教員向けに授業指南書 成長するティップス先生 を作成している.

 この深刻な問題に対して,教育フォーラム で引用している 「学力崩壊を食い止めるための、教育政策に関する緊急提言書」(地球産業文化研究所) では6つの提言がなされた:
1.2002 年度に予定されている「新学習指導要領」実施の全面中止
2.小・中学校における 基礎学力の充実のための「柔軟な学級編成 ,学習方法」を可能にする(・教科書の内容を自学自習が可能な詳しいものに etc.)
3.高等学校での科目選択性 (アラカルト方式) の拡大を中止し、基礎教科を必修に戻す
4.大学入試における英数国の必須化
5.大学における学力水準維持のための、入学定員の弾力化
6.教育行政の分権化
提言1.の新学習指導要領による授業内容は中・高校の系統表の通りです.その影響の分析は「基礎からの高校数学」「新学習指導要領における数学について」で非常に詳しくなされており,大学揺るがす「2006年問題」 となっている.都麦出版の教育情報でも取り上げられ,ちゃっかり家庭教師のトライまで便乗しているよ.

 また,教育フォーラムの西村和雄 教授 自身は日本を救う私の緊急教育5提言を行っている:
□ 緊急提言1 小中学校は二十数人学級にすべし
□ 緊急提言2 自学自習のできる詳しい教科書にすべし
□ 緊急提言3 公立高校入試の内申書重視をやめよ
□ 緊急提言4 英数国理社による大学入学資格試験を導入せよ
□ 緊急提言5 大学院入学試験を即実施せよ
 以上の提言をどう読み取るかは各人各様であろう.多くの人はこの問題を憂いているに違いない.各自の意見・提言があるに違いない.だが,いろいろな立場の人がまじめに議論する場が案外無いようだ.乗りかかった船だ,ここに作るか.(これだけ調べたんだから)

 言い出しっぺは議論の叩き台を作る必要がある(との義務感にとらわれる).無い知恵を絞って,以下それを考える:私自身は両教授が述べている

自学自習のできる詳しい教科書にすべし

に注目した.以下,これを基点にして議論したい.問題の性質上,身分不相応な生意気なことを言わざるを得ないが,その点はお許し願いたい.

 「自学自習のできる詳しい教科書」を最も必要としているのは誰であろうか.高校までは先生がある程度“詳しい教科書”の代わりをしてくれる.しかしながら,大学に入学した新入生は高校の<授業> と大学の<講義>の違いに甚だしく戸惑うのである.よって,そのような教科書を最も必要としているのは大学一年生である.大学の<講義>や教官の意識は大学の数学教師の授業改善に関する意識からほぼ読み取ることができる.その中で教科書に関する部分を見ると
 5. 2)教科書・教材
 最近の教科書の売れすじは,ページ数の少ないものである。本の種類は多いが,どれももうひとつと言う印象がある。参考書や演習書で自主的に学ぶ学生が減っている今,せめて教科書はしっかりした部厚なものを持たせられないか。
・日本の教科書は薄くなっているが,これは証明を省いているから薄いだけである。アメリカのように学生が自学自習できる厚い教科書が必要だと思う。
・1年次程度のレベルのテキストが不足している。
・教科書を使うことはあまりない, 毎年学生の理解度をテストでチェックしながら,講義を進める順序を変えたり,項目の追加・削除を行っている。
という記述が目を引く.自学自習できる「アメリカの部厚い教科書」で思い出したが,昔非常勤講師時代に北大の工学部で使ったC・Rワイリー著「工業数学」は上下巻で816ページもの大著であった.私自身が学生のときに学んだゴールドシュタイン著「古典力学」は482ページ,メシア著「量子力学」は第1卷だけで504ページある.確かに分厚かったが,“分からない<講義>”を補うためには絶対の必需品であった.大学の(はっきり言って下手な)<講義>をその場で理解せよというのはどだい無理な話だ.そういえば,吉田 武著『虚数の情緒−−中学生からの全方位独学法−−』は1001ページ,『高校数学+α :基礎と論理の物語』も557ページある.

 高校の<授業>と大学の<講義>の違いを最も如実に表すのは「線形代数」である.そこで,市の中央図書館に行って50冊以上を片っ端から調べてみた.確かに薄い.私が20年も前に非常勤講師のとき使った『改訂 線形代数要論』(青木利夫,大野勝寛,川口俊一,山本健二 共著,培風館,177ページ)もある.調べてみるといまだ教科書として使っている大学は多い.教科書の多くは一般のn次元ベクトルから入るから,3次元ベクトルも満足にやっていない新入生に自学自習せよといっても無理である.これが「・1年次程度のレベルのテキストが不足している」ということの真相らしい.『高校数学+α :基礎と論理の物語』に需要があるのはこの辺に理由があるようだ.平面・空間のベクトルをきちんと議論し,かつ線型空間の公理的議論もしているのはH.アントン著「やさしい線形代数」(山下純一訳,現代数学社)である.これは420ページあり,日本の教科書の2倍はあるが,学生が自学自習できる教科書である.面白いところでは,小島寛之著「ゼロから学ぶ線形代数」(講談社,220ページ)がある.書き方が“軽い”ので教科書とは行かないが,学生の初めての自学自習には役立つ.
 2006年問題を目の前にするとき,各学部の教授は学部の特性に合わせて,高校の教科書を考慮しつつ,高大一貫の教科書を書く必要に迫られている.「参考書や演習書で自主的に学ぶ学生が減っている」のは適切な大学教科書がないためだと解釈すべきである.「自学自習のできる詳しい教科書」を高校だけに押しつけられる訳がない.

 さて,「自学自習のできる詳しい教科書」を中学・高校で使わせたとしよう.うまく行けば生徒は自分で考える癖がつき,真の学力がつく.ただし,そのことがたやすく制度化できるかどうかは私には分からない.巨艦 文部科学省が簡単に舵を切れるかどうかが判断できないからだ.ここで私が議論したいのは,「自学自習のできる詳しい中高の教科書」があるとしても,万事目出度しとは行かないということだ.さらなる条件が要る.
 非常に極端な偏差値渇望ドラマ偏差値70からの大学受験!?ぼく,偏差値大好きに言及するまでもなく,受験生は偏差値が少しでも高い大学を目指す.そのことを善い・悪いと言ったところで問題の現実的な解決にはならない.受験産業は偏差値をあおり,生徒は(学力とは一致しない)偏差値の上がり下がりに一喜一憂する.(私自身,長い間受験産業に身を置き,教育と受験技術・理想と現実の狭間でもがいてきた.それが終了して,教育・理想をストレートに求めることが可能になり,ようやく『高校数学+α :基礎と論理の物語』が書けた訳です).重要なことは偏差値が(大学の望む)「真の学力」に直結するようにすることだ.それができるのは大学だけである.

 京都大学 上野健爾教授の大学入試と高校数学を見てみよう.
記述式の数学の試験は,日本語の読み書き能力も含めて論理的に議論を進める力をみる上で,いわゆる論文入試よりはるかに客観的に判断できるということである.センター試験のようなマークシート方式では,どのような学力も測ることが難しいことは言うまでもない.
これを眺めると,諸悪の根元は「大学入試の方法」にあると思われる.事実そうであろう.「自学自習のできる詳しい中高の教科書」によって生徒が「真の学力」がつく勉強をする可能性ができるとしても,真の学力が判定できる入試を行わない限り,生徒はそんな勉強をしない.楽をして合格できる方法を必ず選ぶ.このことは偏差値神話が崩れるまで続く.入試問題の作成・採点等に関する直接の情報,よって受験生必見の情報は 数学のみえる丘 の深川久先生のまとめ大学の先生方からのお話に詳しい.
 「真の学力が判定できる入試」なんてものは可能であろうか.もし可能ならそうしたいと誰もが思っている.「自学自習のできる詳しい教科書」から導かれる真の学力を持つ生徒は「自学自習のできる者」を意味する.そのような者を合格させることができる入学試験が可能ならば問題は解決する.「自学自習のできる者」とはどんな者か.まず,天才や生まれつきの秀才,努力による秀才たち.彼らはどんな試験でもこなせる.問題になってくるのは「自学自習する秀才未満の者」たちである.その者たちは自分の頭で考える,がしかし,正解にたどり着くまでに時間がかかる.(ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんは,謙遜して,自分は「自学自習する秀才未満の者」というようなことを言っていた.とてつもない努力家には違いない).「自学自習する秀才未満の者」を適切に判定できる試験であれば良いのではないか.

 私は,大学が労を厭わず,各大学が協調し,文部科学省が理解を示せば,そのような入学試験のやり方は可能であると考える.

試験時間をたっぷり取る

という方法はどうであろうか.時間を長くできれば出題する問題にも幅を広げることができ,良問も出せる.もちろん記述式の問題が出せる.受験生にとっても,計算ミスを直す時間はあるし,ある解法で失敗しても別な解法を探る時間がある.これだと第1志望大学の試験で失敗しないで済む.ただし,いい加減なインチキ勉強の者たちはぐうの音も出ないであろう.今までそんな者たちが入学してきて困っているのは大学である.試験時間は私としては24時間以上を想定している.もしこんな試験が現実になったら,高校の教育・受験産業の態勢はがらっと変わる.

 このような“缶詰入試”は,各大学が学生を確保しようと躍起になっている現状では,無理であろう.しかしながら,日本の最高知能が日本の行く末を憂え,大学の団結の重要性を知るとき,殆どの大学でこのような試験が可能になるのではないか.文部科学省が補助金をちらつかせて圧力を加えてくれれば,案外簡単に実現するかもしれないし,国会議員を説得する方がより実現性があるかもしれない.

 以上,無い知恵を絞って,議論の叩き台を提案したつもりである.この続きの議論は「高校の<授業> v.s. 大学の<講義>」という議論(発信)板を用意したので,そちらでお願いします.表題「高校の<授業> v.s. 大学の<講義>」は銀林浩著『線型代数学序説--ベクトルから固有値問題へ』(現代数学社)の第0章§1 高校数学とどこが違うか? に載っていた
まず,高校は<<授業>>だったのに,大学は<<講義>>だ.
からパクリました.

 議論は“日本の行く末を真に案ずる”という気持ちを込めて,真面目に・真剣にお願いします.実現可能な名案が出来上がるまで煮詰めたいと思います.個人攻撃,ただのぼやき 等は慎みましょう.(あまりにひどいものは削除させていただきます).
 時々議論を整理して「中間のまとめ」を作り,ここに書き加えていく方法を考えています.

議論(発信)板 に行く. 
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